震災から5年経った今も、津波で失った息子を探し続ける男性。そんな彼が自宅敷地に作り上げた物を見て、多くの人が笑顔になる。

2016.04.30 impression

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この菜の花畑を作った福興浜団の代表を務める上野敬幸さん。
 
上野さんは、5年前の東日本大震災の津波で両親2人と子ども2人を失いました。
 
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2011年3月11日、萱浜に波が押し寄せた時、上野さんは地消防団のリーダーとして地域の人々の救出に当たっていました。
 
仕事に出ていた妻の貴保(きほ)さんは難を逃れ再会できたものの、震発生直後に自宅で無事を確認し、避難していると信じていた他の4人の姿が避難所はどこにも見当たらなかったのです。
 
そしてその直後、福島第一原発事故が発生。
政府による緊急事態宣言を発令で、第一原発から北に約22キロの萱浜は屋内退避区域に指定されました。
 
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非常事態宣言が発令されたため、警察、消防、自衛隊も救助や捜索には来れず、残った消防団のメンバーだけで萱浜で上野さんは家族を捜し続けました。
 
避難指示に伴い、福島第一原発から半径20km内外の地域では、津波に巻き込まれた人の救助捜索や遺体収容が震災発生から約1か月行うことができず、行方不明者捜索は地元住民に限られてしまったのです。
 
この1ヶ月間で上野さんたち消防団は、40人近くを捜し出しました。
 
ぬかるみの中やがれきの下には、よく見知った隣近所の顔がいくつもあり、母・順子さんと長女・永吏可ちゃん(当時8歳)も遺体で見つかりました。
 
この津波によって、萱浜だけで138人もの尊い命が奪われてしまったのです。
 
捜索隊がすぐ入れば助かる命もあったかもしれない・・・。
上野さんたちは悔み、涙を流してばかりの日々だったといいます。
 
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やがて消防団の活動にボランティアが加わるようになり、捜索ボランティア団体「福興浜団」が結成されました。
 
上野さんは福興浜団と共に、いまだ行方不明のままの父の喜久蔵さんと長男・倖太郎くん(当時3歳)、そして家族以外の行方不明の人々の捜索活動を今も続けています。 
 
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福興浜団が定期的に行なっている捜索活動は非常に過酷です。
 
原発事故で手がほとんど入らなかった避難区域などの海辺を中心に、家や車の残骸をかき分け、がれきを撤去しながら、砂を掘り、消波ブロックの隙間から遺骨や手がかりになりそうなものを捜し出します。
 
とても地道で根気の必要な作業なため、体力的にも精神的にもツライと言います。
 
しかし、行方不明者がいる限り、捜索を止めることはできません。
 
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