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4歳の娘は、仕事で帰ってきたわたしに、毎日「絵」を描いてくれる。
描く絵は、様々。
でもわたしと旦那の絵が多い。
 
ある日、突然娘に聞いたことがある。
 
「なんで、ママに毎日絵を描いてくれるの?」と。
 
すると娘は、「ママが喜んでくれるから」と言った。
 
わたしは、娘から絵をもらうと、必ず笑顔になって「ママにまた絵を描いてくれたんだねー、ありがとう」と娘に言う。
それを聞いた娘は、「絵を描くとママが喜んでくれる」と思い、絵を毎日描き続けているのだ。
 
なんて事なく聞いた、娘の言葉。
しかし、ここにまた、わたしと娘の「思いやり」に、大きな差を感じる。
 
わたしが笑顔になって喜ぶのは、嬉しいと気持ちももちろんあるけど、それ以上に娘が自発的に行動したことを「認めてあげたい」という意識を持って喜んでいる。
それは、また、「自分の思惑」がそうさせているという事に気付いてしまった。
 
でも、娘はそうじゃない。
「ママが喜ぶから」その一心で、娘はわたしに絵を描き続ける。
私がどう思われたいという感覚などなく、相手が喜ぶから、その行動をする。
 
それはいわば、「無償の愛」というものではないか、と思った。
そして思いやりって、「無償の愛」なのではないか、とも。
 
人間の優しさには、ある程度、裏があるのは仕方がないと思う。
特に大人になればなるほど、社会の一員として生きる為には、調和が必要で、調和を実現する為にはある程度の計算も必ず必要だから。
 
でも、それだけになると、本当の自分ってなんなんだろうって見失うことになる。
全ての優しさが、自分の思惑を実現する為の行動になってしまうと、自分の本心がなくなってしまうから。
ある意味、究極の嘘つき人間になってしまう。
優しくても、思いやりのない、偽りの人間に。
 
思いやりを「無償の愛」だと考えた時、わたしがいつも考えていた「優しさ」というのは、少し間違っていたと思った。
娘がわたしに毎日絵を描く様に、誰かの為にって本気で思って、優しさを見せていたか?
わたしはここ最近、そんな感覚を全然忘れてしまっていた。
昔はただ、「何かをして笑顔になってほしいな」と人を喜ばせる行動をしていたのに。
 
人との付き合いが希薄に感じる人は、多分こういう所が原因になってると思う。
仲良くしてたり優しくしてたりする行動全てに、思惑があるってどこかで分かってるから。
互いが互いに薄っぺらく感じてしまい、どこか疎外感みたいなものを感じるのではないだろうか。
 
思いやりって言うのは、見返りを求めず、誰かを想うという事。
そうした思いやりが社会に増えれば、凄く人と人の絆を深めるきっかけになる様に感じる。
 
とりあえず、わたしは、無償の愛を持った思いやりを、娘をはじめたくさんの人に持とうと思った。
娘が教えてくれた、思いやり。
思惑の優しさじゃなく誰かを本気で想う優しさを持てる様になった今、わたしの鬱はすっかり収まっている。
 


Writing by Yoko Sasaki


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